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4.日常生活漫画と武道漫画 日本文化復古調 戦後日本マンガ史’45年~’50年代④

ニッポン戦後マンガ史(’45年~’50年代)

4.日常生活漫画と武道漫画 日本文化復古調

イガグリくん

ポストくん・猿飛佐助・赤胴鈴之助・矢車剣之助

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日本は’51年にサンフランシスコ講和条約を締結し、ようやく独立の道を歩み始める。それまでの日本は、日本人の精神的な強さを恐れたアメリカの文化政策によって、日本古来の文化を奨励することを強制的に禁止されていた。’45年~’51年の日本は柔道、剣道などの武道から仇討ち・復讐劇などの時代劇までもが禁止されるなど、特殊な状況下にあった。それが、サンフランシスコ講和条約を機に解禁になり、それまで抑圧されていた反動から日本文化復古調ブームが起きる。日本人が求めていたものは、時代劇、チャンバラ、柔道、剣道、相撲であり、これまでのSF、西部劇、野球の人気はこうしたものの代替えでもあった。これまで児童漫画界は、手塚治虫のSF漫画一辺倒であったが、ユーモア生活漫画、馬場のぼる「ポストくん」、柔道漫画、福井英一「イガグリくん」などが人気を得ていく。’50年代前半は、手塚治虫、馬場のぼる、福井英一が人気を博し、三人はその人気から児童漫画界の三羽ガラスと呼ばれた。

コマ漫画の時代
・’50年代前半までの主な少年誌
音羽グループ    ①講談社「少年クラブ」(’46年創刊)、「少女クラブ」(’46年創刊)
②光文社「少年」(’46年創刊)、「少女」(’49年創刊)、
その他       ③尚文館「野球少年」、(’47年創刊)、学童社「漫画少年」(’47年創刊)、
④少年画報社「冒険活劇文庫」 (’48年創刊→’50年に少年画報に改題)、
⑤秋田書店「冒険王」(’49年創刊)、
一ツ橋グループ ⑥集英社「おもしろブック」(’49年創刊)、「少女ブック」(’51年創刊)

’46年~’49年にかけて創刊された少年誌は、小説、絵物語、漫画の三つを柱にテレビのない時代の情報源としてスポーツ、科学などの情報記事から成り立っていた。この中でも絵物語が圧倒的人気を得て、絵物語「少年王者」を擁したおもしろブックは’52年に31万8千部を発行し、少年誌で№1となる。小説にこだわった雑誌は休刊に追い込まれていった。漫画はというと、手塚治虫に代表される長編ストーリー漫画は、まだ雑誌にはなく、当時の漫画とは戦前からの漫画家によるコマ漫画のことだった。当時、雑誌で人気だった漫画は、少年クラブの横井福次郎「ふしぎな国のプッチャー」(’46年~’48年)、漫画少年の井上一雄「バット君」(’47年~’50年)、漫画少年の原一司「カンラカラ兵衛」(’48年~’49年)、少女の倉金章介「あんみつ姫」(’49年~’55年)、など。’50年代に入ると戦後デビューした漫画家が人気を得ていく。その代表が手塚、馬場、福井の三羽ガラスで、手塚はストーリー重視のSF漫画を、馬場は日常生活を題材にしたユーモア漫画を、福井は熱血ものの武道漫画を描き、この三人の漫画はそれぞれそのままジャンル化されていく。

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ほのぼの日常生活漫画 馬場のぼる、杉浦茂
子ども向け漫画は長らく主に「笑い」を担当してきた。’50年代前半、この「笑い」の漫画を引き継ぎ、牽引したのが馬場のぼる、杉浦茂の二人だった。二人の代表作は、おもしろブックの馬場のぼる「ポストくん」(’50年~’54年)、おもしろブックの杉浦茂「猿飛佐助」(’54年~’56年)。馬場のぼるの作品は、少年たちが秘密基地をつくる物語であったり、隣町の少年団との砦をかけた争いの話など、永遠に続くと思わせる少年たちの楽園が描かれた。日常にある少年目線のほのぼのとした物語で、この路線はドラえもん、ちびまるこちゃん、などの漫画へと引き継がれていく。杉浦茂の作品は、脈略のない笑い(ナンセンスギャグ)だったり、お祭りのように多数のキャラが混在しながら勝手な行動をとるという笑いを演出し、唯一無比の杉浦ワールドといった作風だった。この路線は、おそ松くん、うる星やつら、などの系譜となる。この頃の漫画は、主に馬場のぼる、杉浦茂たちによる「ユーモア」や「笑い」を担当し、高度なストーリーものの漫画は手塚治虫くらいで、それは小説、絵物語が担っていた。しかし、手塚に続き、高度なストーリーを漫画で描ける漫画家が出現する。

武道漫画 福井英一の登場
福井英一は、’52年、当時絶大な人気誇っていた手塚治虫に対抗するためにストーリー漫画(手塚漫画)を研究し、編集者と企画を練り上げ、秋田書店の冒険王で柔道漫画「イガグリくん」を連載開始する。この「イガグリくん」は苦労の甲斐あって爆発的人気となって、翌’53年、掲載誌である冒険王は50万部を発行して少年雑誌で一番の発行部数となった。福井英一の漫画は、キャラクターは日本人らしい顔つき、体型はがっしり胴長、性格は熱血漢にあふれ、手塚には描けない後にスポ根と呼ばれるスポーツ(武道)漫画の先駆けとなった。こうした福井の作風は武道とマッチし、日本文化復古調のブームの影響もあって、「イガグリくん」は漫画として、雑誌連載では初の爆発的ヒット作となる。この人気の影響から柔道、剣道、相撲を題材にした熱血漫画が次々と連載される。 続いて福井は’54年、少年画報社の少年画報で剣道を題材にした「赤胴鈴之助」を連載する。ところが福井は、連載一回を終えた後に33歳の若さで急死してしまう。少年画報社は人気のあった「赤胴鈴之助」を終わらせるのは勿体ないということで、これを武内つなよしに引き継がせる。これが「イガグリくん」以上の人気を得る。「赤胴鈴之助」は、映画、ラジオ、テレビと連動した初の大ヒット漫画となって、子どもたちの間に柔道ブームに続き、チャンバラブームが起こる。「赤胴鈴之助」を擁した少年画報は、’58年80万部を発行して少年雑誌№1となった。手塚は、自分の人気を越えた福井にライバル心と嫉妬を抱いてしまう。手塚が「イガグリくん」を批判したため福井と口論になり、手塚が漫画上で謝罪するという事件があったり(三羽ガラスのもう一人であった馬場のぼるが仲介役となった)、福井の死には内心ホッとしてしまったいうことをNHKの「手塚治虫ショー」で告白していた。

漫画少年の休刊と絵物語人気の終焉
’54年、運輸省の規定変更により材木、金属、布、などを用いた付録は雑誌並みの運賃では扱えなくなる。そこで、各社は付録を組み立て品から小説、絵物語、漫画などの別冊付録に切り替えざるを得なくなる。2、3年前から読み切り別冊付録は増えており、絵物語、漫画の需要は増えていった。その中で、’50年代前半に人気だった絵物語は、人気を漫画に食われていく。絵物語は、絵を売りにしているため絵にかける時間がかかり、また絵に力量がある作家の数に限りがあったため、付録合戦によって増大した需要に答えることができなくなっていく。また、絵物語の挿絵は難しく、子どもたちは模写できないため模写しやすい漫画の方に人気が傾倒していった。結果、絵物語の代表作家、永松健夫、山川惣治、小松崎茂、福島鉄次、たちに続く次世代の作家が育たず、絵物語は衰退の一途を辿る。(かわりに絵物語から影響を受けた白土三平、水木しげる、小島剛夕、たちがまったく新しい漫画をうみだすことになる。)

そして、’55年、多くの漫画少年たちの支援にもかかわらず、漫画界に多大な貢献を果たした「漫画少年」が休刊してしまう。付録合戦、煽情的漫画に敗れたとも、マニア路線が売れ行きを悪化させたともいわれる。しかし、’55年は団塊の世代が小学生の低学年になる年代で、各出版社は低学年向けの雑誌を相次いで創刊するなど、需要は伸びつつあった。講談社「ぼくら」、「なかよし」、集英社「りぼん」、などが創刊され、これらは創刊時から漫画を中心に誌面構成される。当時、「イガグリくん」のヒットで漫画の需要が伸びつつあり、読者は絵物語に代わる娯楽として漫画に期待した。結果、「漫画少年」の休刊は、漫画少年が育てた新人漫画家たちを各誌へ散らばせていくこととなった。こうして、’50年代後半、月刊少年漫画誌の黄金時代が訪れる。


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