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サザンオールスターズ①~入門編 特徴と成し遂げた革命を紹介!~

サザンオールスターズ
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メンバーとデビュー経緯

●メンバー
桑田佳祐(Vo Gu)
関口和之(Ba)
松田弘(Dr)
原由子(Key Vo)
野沢秀行(Per)
大森隆志(Gu)*2001年脱退

●デビュー経緯
1974年、青山学院大学に入学した桑田と関口が
フォークソング・サークルBetter Daysで知り合い、
翌年、同大学に入学した原と大森も同サークルに入ります。
桑田がつくったバンドはメンバーが入れ替わりながら
大森と知り合いだった松田、野沢が入り、1977年に固定化されました。

1977年3月ヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」で
桑田佳祐がベストボーカル賞をとったことでデビューのきっかけを勝ち取り
1978年6月にシングル「勝手にシンドバッド」でデビューしました。

サザンと桑田 全シングルとアルバム リリース時期を紹介!

サザンオールスターズの特徴①/日本語ロックのスタイルを確立!

サザンオールスターズは、日本語で歌うロックの一つのスタイルを確立させました。
サザンは、1978年6月に「勝手にシンドバッド」でデビューしますが、
それまで日本語はロックンロールのような速い曲には乗らないと思われてきました。

1970年に伝説のバンド「はっぴいえんど」がデビューします。
「はっぴいえんど」は、日本のビートルズと評され、
ロックにきれいな日本語を乗せる方法論を確立させたと言われています。
つまり、日本語で歌うロックを創作する場合、
必ず「はっぴいえんど」の影響下にあると・・・。

そんな「はっぴいえんど」中心史観のアンチテーゼとして登場したのが
キャロル(矢沢栄吉)、サザンオールスターズ(桑田佳祐)、でした。
「はっぴいえんど」が確立した日本語ロックも万能ではなく
日本語のきれいな響きをロックのメロディに乗せようとすると曲創りには限界がありました。
初期のビートルズの曲(ロックンロール)のような速い曲だったり、
ローリングストーンズのようなノリのある曲を日本語で創れなかったのです。

そのような曲を創るために
「日本語のきれいな響き」を歌うことに捕らわれない曲創りをしたのが
矢沢栄吉と桑田佳祐です。
矢沢は、日本語と英語のちゃんぽん歌詞を発明し
そして桑田は、矢沢以上に意味の分かり難い造語歌詞を創作します。
さらに何て言っているか聴き取りにくい歌詞で、
(一つの音符に日本語を詰め込むことで)
16ビートの速いテンポのノリのいい曲を創ることに成功しました。
その曲が「勝手にシンドバッド」です。

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サザンオールスターズの特徴②/夏のイメージの定着!と日本らしさの探求!

サザンオールスターズと言えば、夏、湘南、を連想させる人も多いと思います。
それを定着させたのがデビューから4年後の1982年
シングル「チャコの海岸物語」、アルバム「NUDE MAN」です。
デビュー時から桑田佳祐の地元の茅ヶ崎(⇒海)に関する歌詞は多く
シングル、アルバムのリリース時期も夏だったので、
最初から「サザン⇒湘南⇒海⇒夏」のイメージ戦略はあったと思われますが
1982年から、より意識的に販売戦略化していくようになります。

デビューから
「勝手にシンドバッド」⇒「いとしのエリー」⇒「C調言葉に御用心」
とヒットを連発したサザンオールスターズでしたが
1980年~81年の2年間はヒット作に恵まれませんでした。
要因は、洋楽志向が強い曲に、当時の日本人がリアリティを持てなかったからでした。
いいメロディも持っていても聴く人にリアリティを与えられなければヒットしません。

そんな起死回生の状態でリリースしたシングルが「チャコの海岸物語」です。
この曲は、今までの洋楽志向を取りやめて、歌謡曲志向に振り切っています。
桑田が幼いときに聴いていた歌謡曲っぽく創っているので
時代遅れ感がありますが、歌謡曲パロディにもなっており、
勝手にシンドバッド同様、少しふざけた感じが時代に合ったのだと思います。

そして、海、湘南、に関する歌詞と波音を挿入することで
「夏=サザン」のイメージ定着化を狙っています。
「チャコの海岸物語」が持つ湘南(=夏)と歌謡曲(=日本らしさ)の2要素は
受け入れられ、久しぶりのヒットソングとなりました。

サザンオールスターズの特徴③/都会的サウンド、80年代の音を確立!

1984年、サザンオールスターズはアルバム「人気者で行こう」を発表します。
このアルバムは、シングルにもなった「ミス・ブランニュー・デイ」に代表される数曲が
シンセサイザーを使ったサザン的テクノ・ポップと言える内容となっています。

1970年代後半、シンセサイザーという電子音を複雑に組み合わせて曲を成立させた
テクノ・ポップというジャンルの音楽が出現します。
日本では、1978年にYMOがデビュー!テクノ・ポップの代表格でした。
(当時は、世界的にも最先端の音楽で、日本で彼らは追随を許しませんでした。)

「人気者で行こう」が発売された1984年になると
シンセサイザーで曲を創ることは珍しくなくなっていて、
シンセサイザーの音をメインにしたテクノ・ポップは流行遅れ気味になっていました。
当時、アメリカで人気があったのは、TOTO、Journeyなどのバンドで、
彼らは莫大なセールスを記録していました。
彼らの音楽は、後にそのセールスから産業ロックと呼ばれることになります。
彼らの音楽は、ボーカルは高音、万人受けするメロディ、
シンセサイザーを使って音全体に厚みがありました。

「人気者で行こう」は、シンセサイザーを使ってはいますが、
YMOなどのテクノ・ポップというよりは産業ロックに近い音です。

前作のアルバム「綺麗」が完成した当時、
桑田はボブ・クリアマウンテンという有名なミックスエンジニアに
そのアルバムを聴いてもらう機会があったそうです。
その感想が「みじめな音」という感想だったらしく、
桑田がガッカリしたというエピソードがあったようです。
産業ロック風の作風は、それを脱却するための実験的試みだったように思います。

産業ロックは世界中で売れたという実績があり、
ここで、サザンオールスターズは、自分たちが目指す音楽が
万人受けする音楽と合致することになりました。

しかし、サザンには洋楽的なサウンド創りに偏って
ヒットに恵まれなかった過去があり、
再び失敗する可能性も充分あり得ました。
結果は、サザンオールスターズの前向きな姿勢が成功に導き、
シングル、アルバムともにヒットします。
文字通り「人気者で行こう」というコンセプトで大成功を果たしたことになります。

このアルバムが凄いところは、産業ロックのテイストを導入したことで
都会的サウンドを確立したことです。
それは、「チャコの海岸物語」で成功した
歌謡曲的な昔の日本の田舎っぽさを捨てることになりました。
この実験の成功はデビュー以来、二度目の革命を成し遂げたと言ってもいいと思います。

新たなファンを獲得したサザンオールスターズ(桑田佳祐)の人気は
以後、不動となり、夏にリリースすれば必ず売れると言われるようになります。
さらには、国民的バンドと呼ばれるようになって行くのです。

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