スポンサーリンク

ビートルズ雑談⑤~徹底比較!ローリング・ストーンズはビートルズのライバルと成り得るか?~

ビートルズ
[ad#co-2]

ローリング・ストーンズはビートルズのライバルと成り得るか?

1960年代のロックシーンは、良くも悪くもビートルズの影響から逃れられません。
21世紀になって、60年代、ビートルズがトップバンドであったことを否定する人は少ないと思います。
そのビートルズに対抗できるロックバンド、ミュージシャンは誰か?
60年代のビートルズに対抗できるのは、ボブ・ディランかビーチボーイズくらいで
ローリング・ストーンズ?と思う人もいるかもしれませんが
確実にビートルズの後を着いてきて、ビートルズに並んだ瞬間もあります。

二つのバンドを比較しながら
それぞれのバンドの特色と実績を紹介したいと思います。

ビートルズとストーンズの作品と発表時期
(黒字がシングル、赤字がアルバム)

(’62年~’63年)デビュー!ビートルズとストーンズの違いは? 労働者階級出身のビートルズと中流階級出身のストーンズ!

ビートルズは1962年10月「ラブ・ミー・ドゥ」で
ストーンズは、’63年6月「カム・オン」でデビューします。

ストーンズがデビューした頃は、
ビートルズは既にイギリス国内では売れに売れているといった状況で
ストーンズはビートルズに追いつけ追い越せと言った地点からのスタートになります。

デビュー時の二つのバンドの一番の違いは、
ビートルズがオリジナル楽曲(自作)を重視したのに対して
ストーンズはブルース、、ロックンロールのカバーを重視したことです。
二バンドともアメリカ黒人のブルース、ロックンロールに多大な影響を受けており、
当時は、それを演奏すること自体が先進的だったのですが
ストーンズはビートルズよりもマニアックな、レアな黒人音楽を
カバーする特徴を持って登場したのです。

また、二バンドの違いとして
ビートルズは、いいとこのお坊ちゃん的イメージ、
ストーンズは、不良バンドとしてのイメージが定着しました。
これはマーケティング戦略で、
ビートルズが行儀の良いイメージで成功したので
後追いで売っていくストーンズは、
その逆のイメージで売り出していくことになったのでした。

実際は、ビートルズのメンバーはリバプールの労働者階級出身
一方、ストーンズはロンドン郊外のダートフォード出身の中流階級出身
と言われています。

ジョン・レノンが育てられた伯母の家は割と裕福だったそうですが
母親とは別居状態で、さらに母は目の前で交通事故により亡くなってしまったりと、
恵まれた少年時代ではありませんでした。
(メンバーたちが住んでいた地域は貧しい住宅街だったようです)
ミック・ジャガーは、父親が上流階級出身の体育教師で
不自由なく育てられたそうで、
エリート大学のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業しています。
(日本で例えると一橋大学みたいな国内2番手格の大学)

(’64年)アメリカ進出!米国を制したビートルズと追うストーンズ

ビートルズは’63年1月発売の「プリーズ・プリーズ・ミー」でイギリスのチャートを圧倒し
アメリカで発売された「抱きしめたい」(’63年12月)でアメリカをも制します。
本国イギリスに続いて、’64年のアメリカの音楽業界もビートルズ一色になります。

このときストーンズは’64年4月にファーストアルバム「ローリング・ストーンズ」をリリースしています。
このアルバムは12曲中9曲がブルース、ロックンロールのカバーで
キース・リチャーズはデビューから今までシングル用に録音した集大成的アルバムと言っています。
イギリスではビートルズの「ウィズ・ビートルズ」を蹴落としてチャートの首位に立つほどのヒットを放ちます。
イギリスでは、ビートルズに次ぐ人気の獲得に成功しましたが
アメリカでの人気の獲得には成功できずにいました。

’64年はビートルズがアメリカを席巻した影響で、
イギリス出身のバンドがアメリカの音楽チャートを賑わした現象
(イングリッシュ・インベイジョン)が見られ
ストーンズもビートルズに続けとアメリカにツアーに出てプロモーションをかけますが
人気は今一つといった結果に終わります。
アメリカでの人気は、同じくイギリス出身のバンド、デイブ・クラーク・ファイブに人気で遅れをとります。

しかし、これで終わらないのがストーンズ。
当時のマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムが
ビートルズと同じようなオリジナル曲路線を推奨し、ミックとキースが見事にこれに答えます。
後にミックと交際することになるマリアンヌ・フェイスフルに提供した
「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ (涙あふれて) 」がヒットします。

(’65年)ビートルズに追いついた?のも束の間!対決は次なる局面へ!

「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ (涙あふれて) 」がヒットし、
ミックとキースは自信を持つようになります。
二人は次々と良作を創作していき、
そして、生まれたのが「サティスファクション」です。
「サティスファクション」は、全米ビルボードチャートの’65年の年間ランキングで3位となるヒットとなります。
この曲を生み出したことでストーンズは
ビートルズ以外のイギリスのバンドを一蹴して
ビートルズに匹敵する存在となります。

しかし、’65年のビートルズはというと、次のステージへ駒を進めていました。
「抱きしめたい」で’64年の全米ビルボードチャートの年間ランキングで1位を獲得していた
ビートルズは早くも人気者であることに疲れ、飽き始めていました。
アイドルでいることよりもアーティストになる模索を始めます。
それは、自作自演で世界を制したビートルズにとって当然の方向性であったように思えますが
この行為が世界の音楽業界を震撼させていくことになります。

[ad#co-2]

(’66年)またも時代を切り開いたのはビートルズ!一方ストーンズは?!

ビートルズは’65年の12月にアルバム「ラバーソウル」を発売しています。
このアルバムは全曲ビートルズによる作詞作曲群で占められ
歌詞に哲学的要素が含まれ、曲の雰囲気にも全曲に統一性が見られるアルバムとなっています。
世間で芸術作品としての評価がでるのは、しばらく経ってからでしたが
当時、ビートルズと同じ土俵で勝負しているストーンズには驚愕でした。
今までポップミュージックは、商業的なものとしか評価されていませんでしたが
このアルバムは、ポップミュージックも
モーツアルトやベートーヴェンと同レベルの芸術として成り立つ可能性を示すことになります。

ストーンズの、この「ラバーソウル」へ回答したアルバムが
’66年4月発売の「アフターマス」です。
このアルバムは全曲ストーンズオリジナル曲で占められた初のアルバムです。
アフターマスは「アンダー・マイ・サム」、「アウト・オブ・タイム」などの
名曲が入っていますが、ラバーソウルと比べると見劣り感は否めません。

さらにビートルズは、’66年8月「リボルバー」を発売します。
リボルバーは誰もやったことのないような革新的な内容のアルバムで
その芸術性は、ラバーソウルを超えるものでした。
ストーンズはというと、どれだけ革新的なアルバムを創れるかという観点では
かなり遅れをとっていて、
オリジナル曲の良作シングルを数枚出すのが精一杯といった状況でした。
(それだけでも評価に値しますが、ビートルズと比較すると見劣りするのは仕方ない?)

(’67年)ロックを芸術にしたビートルズ!窮地に立たされたストーンズ!

’67年1月、ストーンズは「ビトウィーン・ザ・バトンズ」を発表します。
このアルバムは、トータルアルバムのコンセプトをかなり意識して創られています。
そのコンセプトは成功していて、心地よく1曲目から最後まで通して聴ける傑作です。
しかし、そのコンセプトは既にビートルズによって提示された以上のものではなく、
さらにストーンズの代表曲と呼べるような曲がないので
前作を超える作品かと問われると疑問が残る内容です。
個人的な感想では、1年経って「ラバー・ソウル」に追いついたかな?という印象です。

ビートルズは’67年6月に
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を発売します。
このアルバムの芸術性はリボルバーをも、
というよりも過去の全てのポップミュージックのアルバムを超える内容で
その芸術性は’60年代ロックの頂点に達したと言っていいでしょう。

これを受けてストーンズは’67年12月に「サタニック・マジェスティーズ」を発表しますが
ビートルズの「サージェント・ペパーズ」の二番煎じ感は否めません。
二バンドをアートという分野で比較した場合、
ストーンズはビートルズに完敗したと言っていいかもしれません。

ストーンズはミックとキースによって良質のオリジナル曲を創作できるようになりましたが
それだけでは生き残れないことは明白でした。
良質なオリジナル曲を創れるバンドが次から次へとデビューし始め、
彼らの音楽は、新しい価値観を提示していきます。
’67年の時点で、ストーンズは時代から取り残され、
ロックシーンから消えていく可能性もありました。

(’68年)起死回生!ストーンズが放った一曲!

このストーンズの窮地を救ったのがキース・リチャーズでした。
流行りの音楽スタイルを模倣した時点で、それは時代遅れとなってしまいます。
キースは、自分たちのルーツに立ち返り戦前ブルースの研究に没頭します。

そして、当時のブルースマンのギター奏法の特徴であった
「オープン・チューニング」の技法を取り入れることにしたのです。
その技法によって作曲されたシングル「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」がヒット。
そして、傑作アルバム「ベガーズ・バンケット」に結実します。
「オープン・チューニング」の技法を取り入れた’68年からを
第二期ローリングストーンズと呼んでいいかもしれません。
それくらい、転換期となった出来事で、
この年からのストーンズはシングル、アルバムと
ロック史上に輝く名曲、名盤を次々とリリースしていくことになります。

一方この年、ビートルズはというと、
流石というか、ステージを次の段階へ移行しました。
前年に発売した「サージェント・ペパーズ」の評価がピークに達しており
これを否定(破壊)するようなアルバム「ビートルズ」を創ります。
前作を否定するようなコンセプトとは無縁のまとまりのない内容で、
当時の評論家から酷評されましたが
2枚組で名曲が多いため人気の高いアルバムです。
現在では、東洋文化へのアプローチ、前衛芸術、ルーツ音楽、など
評価が高いアルバムですが、当時は先進的すぎたようです。

ビートルズはこの年シングルの「ヘイ・ジュード」をリリースしていることも忘れてはなりません。
「ヘイ・ジュード」でビートルズは’68年の年間ビルボード全米1位のヒットを放っています。
ストーンズもシングル「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」をこの年にリリースしていて
それぞれがバンドの代表曲に相応しい出来だった曲を同じ年にリリースしたことを思うと
ビートルズの一番の好敵手はストーンズだったと確信をします。

この二曲に関しては面白いエピソードがあります。
この年、ミック・ジャガーとポール・マッカトニーが呼ばれたホームパーティがありました。
その場で、ミックはリリース前の「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」を披露します。
演奏が終わり、皆から喝采を浴びたミックでしたが
ポールが自分も今創っている曲があると言って
「ヘイ・ジュード」を披露し、同じく皆から喝采を浴びた
というエビソードです。
作曲の才能を競い合うようなエピソードで
ミックはポールの披露が終わった後
どうゆう気持ちだったのだろうと想像してしまいます。

[ad#co-2]

(’69年)ライブバンドとしてのビートルズとストーンズ

ストーンズは’68年の年末にテレビ番組「ロックンロール・サーカス」を企画します。
’67年に行ったビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」からヒントを得た企画でした。
ストーンズがビートルズの影を追うのは、これが最後となります。
というのは、ビートルズは’69年9月を持って事実上、解散した状態になるからです。

「ロックンロール・サーカス」は撮影したにも関わらず放映を見合わせることになります。
その原因は、一緒に出演したフーの演奏が圧倒的であったため
ストーンズの演奏が見劣りしてしまうからという理由だったようです。
このことから推察するとストーンズは、
この時点で、後ろから追ってくるフーなどの新勢力によって
シーンから抹殺されてしまう懸念が頭をよぎったのだと思います。
(次から次へと素晴らしいライブパフォーマンスを行うバンドが出現していました)
リーダー的存在であったブライアン・ジョーンズが
ドラックを克服できずにストーンズから離脱してしまったことも一因でした。

しかしストーンズは、この年に、前年の作品に匹敵する
シングル「ホンキー・トンク・ウィメン」、アルバム「レット・イット・ブリード」を創り上げ、
その可能性を吹き飛ばしてしまいます。
一方、ビートルズは
シングル「ゲット・バック/ドント・レット・ミー・ダウン」、
アルバム「アビー・ロード」を発表しています。
両バンドとも名作を発表し、どちらの作品を評価するかは個人の好みとなると思いますが、
この年になって初めて、ストーンズはビートルズの一歩先を進むことに成功することになります。

それは、ストーンズがスタジアムライブツアーを敢行し、
ライブバンドとしての道を極め始めたからです。
スタジアムでのコンサートは、ビートルズが初めて行いましたが
ビートルズがライブを行っていた時代(’66年まで)は音響が悪く、
多くの観客が一度に音楽を楽しめるような環境ではありませんでした。
音響設備の進歩で、’69年くらいになって
スタジアムでのライブツアーができるようになっていったのです。
時代は、ウッドストックが開催されたようにコンサートビジネスと切り離せなくなっていました。
フーのように名演を行うバンドが人気を博していたのです。

ビートルズも’69年の年始から、昔のようなライブバンドに戻って
ライブツアーを行う案が浮上していましたが
残念なことにメンバー間の仲が悪く、メンバーの意見の相違から実現されませんでした。

このときライブツアーを敢行できていたら、ビートルズはどうなっていたでしょうか?

(’70年)ビジネス感覚が二バンドの明暗を分けた?

皮肉にも二つのバンドの共通点にアレン・クラインがマネージャーだったことがあります。
’70年という年は、彼との関係の断ち切り方で
二つのバンドの明暗が分かれることになります。

ビートルズは彼との関係を切るために解散せざるを得なくなってしまいます。
ストーンズは解散という選択肢をせずに彼との関係を切ることに成功します。
結果、多くの実力のあるバンドが時代に殉じていく中、
ストーンズは’70年代以降も生き残っていくことになります。
ストーンズは金の匂いがすると言われ、これを嫌う人もいますが、
ビートルズとストーンズの金銭感覚を比較して分かるのは
ミュージシャンと言ってもビジネス感覚は、
優れた作品を創作するに必要な才能の一つであることです。

1970年、ビートルズは解散してしまいますが
この年のバラバラになったビートルズ(ソロ)の作品を見ると
名作ばかりであることに驚きます。
創作の才能に関しては、ストーンズはビートルズに敵わないこと分かります。

ストーンズがビートルズに勝っているところを挙げるなら
やはり、ライブバンドとしての部分だと思います。
ビートルズが解散せずにライブツアーを敢行していたら?
と考えることもありますが、バンドを存続させるのも才能です。
解散せずに現在まで存続し続けていることが
どれだけ偉大か、ということを改めて認識させられます。

[ad#co-2]
テキストのコピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました