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2.子ども漫画の台頭 絵物語・赤本・漫画少年 戦後日本マンガ史’45年~’50年代②

ニッポン戦後マンガ史(’45年~’50年代)

2.子ども漫画の台頭 絵物語・赤本・漫画少年

バット君

新宝島、黄金バット、少年王者、地底国の怪人
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漫画は「諷刺」と「遊び」の精神を持ち合わせた一枚絵(カートゥーン)から始まり、明治に入って(1880年くらいに)コマを連続させるストーリー漫画が誕生する。明治32年(1899年)に漫画家第一号と言われる北澤楽天が「時事新報」でストーリーのあるコマ漫画を連載し人気を得た。続いたのが岡本太郎の父で、長編ストーリー漫画の創始者として知られる岡本一平だった。大正6年(1917年)、岡本一平によって初めて児童雑誌にストーリー漫画が掲載されると、子ども向け漫画が開拓されていく。昭和に入ると、講談社、中村書店が推進役となって子ども向け漫画が爆発的な売り上げをみせる。戦前、講談社から田河水泡、島田啓三、中村書店から謝花凡太郎、新関健之助たちが次々と子ども向け漫画を送り出した。中でも講談社「少年倶楽部」に連載された田河水泡「のらくろ」(1931年~1941年)は、今までにない動物(犬)を主人公にして人気を得て、少年倶楽部は75万部まで発行部数を伸ばした。当時の子ども向け漫画は戦争を反映したものも多かったが、子どもたちの生活に夢と潤いを与えたのも確かだった。こうした作品に影響を受けた子どもたちの中から長谷川町子、手塚治虫といった漫画家が登場し、戦後、子ども向け漫画は益々の発展を遂げていく。

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大阪赤本vs東京雑誌
戦後、漫画は映画と同じように高度なストーリーを語れる表現方法を獲得していき、絶大な人気を得るようになる。そのストーリー漫画は戦後しばらく、子ども向けを中心にに発展していく。戦後まもなくの子ども向け漫画は、三つの段階を経て市民権を得ていった。①最初の段階は紙芝居から発展した「絵物語」であり、②次の段階は関西を中心に発行され、手塚治虫の功績によってブームになった「赤本」漫画であり、③三番目は東京の出版社による「漫画少年」という漫画雑誌の功績だ。①の絵物語は絵のクオリティはそれまでにないものであったが、コマの革新性はなく小説とも漫画とも呼ばれない、その中間に位置するものだった。戦後の子ども向け漫画は、②俗悪、怪魔とみられた「大阪の赤本」と③上品、優良とみられた「東京の出版物」という二極構造からスタートする。

①(紙芝居⇒)絵物語
戦前、「黄金バット」、「少年タイガー」、「ハカバキタロー」などの紙芝居が子どもたちに人気だった。戦後の焼け野原で育った子どもたちも例外でなく、加太こうじ「黄金バット」、山川惣治「少年王者」の紙芝居が人気を得る。’47年には紙芝居を母体にした少年小説、永松健夫「黄金バット」、山川惣治「少年王者」が発行され、ベストセラーとなる。これらの紙芝居をもとに小説化されたものは絵物語と呼ばれた。絵物語は挿絵に多くのスペースを使う子ども向け小説のことで、これまでの小説と違って文章よりも絵が強調された。これらの人気のあった絵物語を連載することで創刊されたのが少年画報社の「冒険活劇文庫」(’48年~)、集英社の「おもしろブック」(’49年~)だった。冒険活劇文庫は、永松健夫「黄金バット」、小松崎茂「地球SOS」を連載し、冒険王では福島鉄次「砂漠の魔王」、おもしろブックでは山川惣治「少年王者」が連載され人気を得た。絵物語はブームとなって、「少年王者」を擁したおもしろブックは’52年に31万8千部を発行し、少年誌で№1の発行部数を誇る。絵物語の挿絵は、絵を売りにしているだけあり当時の漫画では太刀打ちできないほど完成されたもので、のちに劇画と呼ばれる漫画に影響を与え、このレベルの絵が漫画に登場するのは20年以上経ってからであった。

②赤本漫画
戦後まもなく、戦災の後遺症とインフレが庶民の生活を苦しめていた。’47年には統制外のヤミ市の物価が三割も上昇(インフレ)した。当時、紙は統制品で、統制外(ヤミ市)のセンカ紙が出回り、センカ紙を用いた玩具本、通称「赤本」がヤミ市(露店)、駄菓子屋で売られることになる。赤本は、 通常の書籍の流通ルートを通らないため低価格で売られ、関西地方を中心に流通する。当初、赤本は戦前の少女小説、冒険小説、絵本、漫画などを載せていたが、’47年に発表した酒井七馬(構成)/手塚治虫(作画)の「新宝島」が当時としては異例の40万部発行するというヒットを果たすと赤本漫画ブームが起きる。当時、数人の戦犯者をだした講談社の例もあるように、GHQによる思想調査等で戦前の出版関係者の出番はまだなく、赤本は出版物というよりも子ども向けの玩具の一つという位置づけであった。そのため赤本は、GHQの検閲が甘く、正規の出版物より自身の思想を自由に描けた。自由に表現できる場を手に入れた手塚治虫は赤本で次々とヒットを量産し、この快進撃によって赤本は大阪の松屋町の問屋を中心に600冊/月もの数が刊行されたといわれている。このブームは’50年頃まで続く。

③漫画少年の創刊(’47年~’55年)
当時、東京の子ども向け漫画は「上品」、「優良」とみられ、大阪で隆盛していた赤本は「俗悪」、「怪魔物」とみられていた。子ども向けに発行していた東京の出版社、漫画家は、子どもたちに明るく元気に育って欲しいというテーマを持っており、その中でも学童社「漫画少年」は、このテーマを徹底していた。「漫画少年」は戦前、講談社発行の児童漫画誌「少年倶楽部」を75万部まで発行を伸ばした名編集長の加藤謙一が独立し、’47年12月に創刊した雑誌だった。創刊後ほどなく、七福人と呼ばれた島田啓三、沢井一三郎、原一司、芳賀まさお、長谷川町子、井上一雄、古沢日出夫、を擁して人気を得る。この中でも井上一雄「バット 君」が絶大な人気で、後人の何人もの漫画家に影響を与えている。手塚治虫の漫画連載を東京の出版社で初めて掲載したのも「漫画少年」だった。さらに、4コマ漫画の投稿コーナーを設立して漫画家の登竜門的存在となる。後に巨匠と呼ばれる多数の漫画家が投稿しており、有望な漫画家たちにトキワ壮(下宿先)を紹介するなど、何人もの漫画家を育成して「漫画少年」は漫画界に多大な貢献を果たした。


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