6月23日に「少女ファイト」11巻が発売されました。
今巻は、主人公の大石練が幼馴染の唯と全日本の合宿に参加する話。
春高に向けて全国のライバルたちが新キャラとして登場するかと思ったら
女子バレー全日本のメンバーが新たに登場。
でも、「少女ファイト」の描き方を考えれば
こうゆう流れになることは必然だったなと後から気づきました。
全日本のメンバーには、練の姉である真理の元チームメイト田上繭がいた。
(真理の元チームメイトでまだ登場していなかったのは繭だけだった。)
10巻で、陣内監督(陣内も真理の元チームメイト)は
真理の死を背負った生き方しかできなくなっていることが描かれました。
今巻では、繭もまた陣内監督と同じように
真理の死に縛られた人生をおくっていることが描かれています。
つまり、11巻は、10巻と同じテーマで、続きってことです。
重要なキャラの死が亡霊のように主人公に付きまとい、
それを乗り越えることで成長するというストーリーは、
「あしたのジョー」から始まった戦後漫画のテーマの一つにまでなっています。
「タッチ」、「シュート」などの名作が、このテーマに挑戦していますね。
「あしたのジョー」、「タッチ」では、死んでしまうキャラは
物語上では、読者にとっても主人公にとってもとても重要な存在として描かれています。
そのため、そのキャラの死は、読者、主人公ともに衝撃的な出来事になります。
ところが、「シュート」は少し違っていて、
死ぬ予定のキャラは早い段階で死んでしまうので、多少の衝撃はあったにせよ、
読者は主人公ほどの衝撃は、受けないんです。
この漫画の編集者は、幼い頃「タッチ」を読んでいて、
好きなキャラが死んでしまい、そのショックからその後読むのを止めてしまったそうです。
その体験があってので
「シュート」では読者がファンになってしまわない早い段階で殺したんだそうです。
「少女ファイト」の場合、11巻までは、真理は過去の人物としてしか登場しません。
ストーリーが始まったときには、既に真理はいなくなっているので
読者にとって、真理の死は衝撃でも何でもなく、前提として描かれています。
つまり、どちらかと言うと「シュート」型の描き方と言えそうです。
日本橋ヨウコ先生の漫画を読んでいる限りは、
練、陣内監督、田上繭が真理を失った喪失感と絶望感というのは
客観的に理解するんではなく、心理的に同化して理解したいんですよね。
「あしたのジョー」、「タッチ」型の描き方をして欲しかったな。